静かな世界に響く、一つの音

自分の趣味全開で書いていく、そんなブログです。

貧困ニュースを見て「誰かの言葉に自分を重ねて見てませんか?」 

 貧困がどうとかという話は自分にとって蚊帳の外に感じる。貧困とイメージするのはホームレスのおじさんたちだった。家もなく帰る場所もなく、ただその日を生きていく。それは何が出来るとか出来ないとかのベクトルではない。でもそれらが挙がらないのは貧困、貧しいのレベルを超えているからだ。簡単に三つに分けるとお金持ち、普通、貧困という形になる。そしてその下に持たざる者としてホームレスなどがあると思う。ではなぜ持たざる者ではなく、貧困が問題になるのだろう?

 

たぶんどうにか出来るレベルと出来ないレベルの違いだろう。貧困までなら救える、そう思われている。お金はないけど、生きていくには困らない。でもその場所に立っていたらいつまでもこのままで変われない。だから助けようと。でもそれってどうなんだろう?いくら手を伸ばして立ち上がらせたところでその人自身が歩かなければ意味がない。貧困は未来さえ奪ってしまう。だから道を照らしてあげなければ、そうやって手を伸ばす。けど貧困から抜けたからって格差はそこまで縮まらない。上を見上げればきりがない、下を見たら今までの自分を見てるようで嫌だ、そういった感情が渦を巻いて泡のように消えていく。

 どうしてなのだろう。人はよく比べたがる。そして自分がどこにいるのかはっきりと確認する。その思いは上を見ての思いではなく、下を見ての思いだった。自分はまだ大丈夫と言い聞かせるように下を見続ける。そして自分を上にあげる方法を考えた。自分で険しい山に登ろうと頑張った。でもなかなか登れなくて、まして頂上なんて雲の上だった。そんな中、自分の後ろを見ると必死に登ってきている人がいる。心に一つの感情ふつふつと芽生えた。何気ない行動だった。とんっと登ってくる人の体を押した。するとバランスを崩し、重力に引かれるように下に下に落ちていった。こんなに簡単だったんだ。私が自分らしくあるために登るなんてことはしない。ただ私を追い抜かそうとする人を後ろから引っ張ったり、登ってくる人を蹴飛ばせばいいんだ。そうすれば私の場所はいつまでも変わらない。それどころか上がっている感じがする。心は海に反射する太陽の光のようにキラキラと輝いていた。

 

 なんて感じのイメージが浮かびました。

 

 貧困だからとかお金がないなんて言葉はどこから生まれてくるのでしょう?それは社会に対して?それとも周りの人に対して?訴えかける思いは届くでしょうか?私はただ聞いてあげることしかできません。そう言われたところで私には次に行動する情熱も怒りも感じないからです。薄情でしょうか、人としての感覚がくるっているのでしょうか。

 世の中では色んな言葉を持って人を動かそうとします。それはやがて大きな波になって世界を変えることもあるでしょう。しかし、言葉だけでは届かない人間もいるのです。確かに感情は揺れ動きました。しかし、それ以上の波は来なかったのです。どうしてでしょう?自分が声を上げたところで変わらないと最初からあきらめているからでしょうか? きっと自分自身のように感じられないからです。そこにいるのは自分ではない誰か。自分自身とは重ならないイメージ。そこから湧き上がる感情はまるで他人の目を通して見たかのような世界。現実と夢の間のようなふわふわとした感覚。

 そんな思いで行動できるのでしょうか?行動するというのは物凄いエネルギーを使います。たとえば自分の地位を上げたいと思ったら誰よりも一歩先を行かなければいけません。周りが全速力で走るなら、自分はそれを超えて走ることが求められます。それは一回だけではありません。百メートル走ったら終わり、ではないのです。二百メートル、四百メートル、距離はどんどんと伸びていきます。どこまで走れば終わりが見えてくるのでしょうか?そんな疑問はゴミと一緒に捨ててただ走らなければなりません。そんな行動力がある人がどれだけいますでしょうか?これが自分の為だったら出来るかもしれません。しかし自分の為ではなく、誰かの為に走ることは出来るでしょうか?そして周りに誰もいなくても走ることはできるでしょうか?自分を先頭に続いてついてくる存在はとても心強いものです。まるで自分の行動が肯定されているようで。でもそうでなかったらきっと走るのをやめてしまいます。なぜならその存在の為に走ったようなものですから。自分が正しいと後ろを眺めて思うのです。一人で走っているようで実はそうではないことに気づけるでしょうか?

 誰かが声を上げなければ変えることはできない。でもそれに続く人がいなければまた変えることができない。行動する原理としてどれだけ自分を重ねることができるかということです。問題は自分を重ねて見てしまうということです。理由と問題が同じです。自己投影した思いとは、きっと自分では表せない思いを誰かに押し付けています。自分を通してではなく、誰かを通して自分の意見を言うのです。だからとても声が大きくなります。言いたくても言えなかったことが言えるのです、そうなっても仕方ありません。逆にその人が傷つけられれば、自分も傷つきます。まるで自分が否定されたかのように。異常な大声や反発は重なってしまったから起きてしまうのです。

 人と人とのつながりはあいまいなものでしかない。それは面ではなく線で出来ている。か細い線はつながりを求め重なろうとする。でもそれでは自分が消えてしまう。出来るのは一瞬交差する瞬間だけ。その瞬間だけ誰かと繋がりあえる。そしてまた誰かと交差する日を求めて線を描き続ける。例え交差しなくても描き続ける、なぜならそれが自分の人生だから。