静かな世界に響く、一つの音

自分の趣味全開で書いていく、そんなブログです。

ただ乱雑に積み上げられた歪な文字たち

 人はつながりたいという思いでいろんなものを作ってきました。理解されたい、したいなど自分の欲求を自分自身にとどめては置けないのです。風船が膨らんでいくように、いつか爆発してしまうのではないかと感じます。もし、言葉も思いも伝わらなかったらどうでしょう? すごくストレスを感じると思います。その思いは蓄積されて自分の中でうねりをあげます。怒り、悲しみ、そういった負の感情は出してはいけないと思われています。ではため込んだその感情はどこへ向かうのでしょう? 洗っても落ちないペンキのように、いつまでも消えない傷痕のように心に残り続けます。

 

 さっきは風船のように例えましたが、その風船の容量は無限にあるのでしょうか? きっとそれはどこを探してもないでしょう。いつかは限界が来ます。そうしたときあなたはどんな行動に出るでしょう? 周りにぶつけますか、それとも自分にぶつけますか、そのどちらにしても傷つけることには変わりないのです。爆発した感情は小さな針ではなく、心臓にも届くほどのナイフになります。そうなれば、誰もが無事では済みません。きっと元に戻すことはできないでしょう。

 できることは少ないかもしれません。でも少しずつ感情を出していかなければ、きっと壊れてしまう、何もかも。なら例え嫌がられようとも、疎まれようともぶつけるしかないのです。それは誰かを守るため、自分を守るためと正当化しようとしているだけかもしれません。ぶつけられた相手は、なんで自分がこんなことを言われなければいけないのか、とか色々思うと思います。それでも受け入れてあげてください、その人はもっと傷ついているのかもしれないのです。ただし、怒りをぶつけたら終わりということありません。流行型の病気のようにどんどんと広がっていきます。ぶつけられたら、今度はまた違うだれかにぶつける。ドミノ倒しのようにパタパタと際限なく広がります。ならどうすればいいのでしょう?

 自分の中に押し込めておけばおかしくなってしまう。誰かに言えばその人に怒りが移ってしまう。リサイクルのマークのようにずっと繰り返します。答えはあるのでしょうか? 仕方ないと受け入れるしかないのでしょうか? ナイフで切り合う姿を見ているとどうしようもない気持ちでいっぱいです。でもやめられないのです。自分の感情なのに自分が追い付いていないという状況に陥っているからです。感情のまま争う姿はきっと人間が理性を持つ前の姿かもしれません。

 

 この文章も感情の表れだと思います。書かなければ、きっと心の中の何かが死んでいく気がするのです。それならそのまま殺しておけばいいとでも思いますが、せっかく生まれた感情に名前を付けてあげたいと、そう思いました。繋がりたいと願うのは生まれたままの姿ではとても弱く見えるのです。だから洋服を着せてあげて、アクセサリーを付けて、メイクをして、理想を創り上げます。それは自分の中ではなく、外から見える形で、です。もしその姿が認められればこれ以上嬉しいことはないです。その嬉しさは創るときの楽しさより人に認められたことの嬉しさの方が大きいのです。誰かとつながるということは愛してやまない感情なのかもしれません。

 

 

 

 最後に、こういった文を書くと止まらないです。何度も同じ言葉を繰り返し形を変えながら広がっていきます。まとまりのない文は文章にはならないです。だた感情のまま書き散らしただけ。バラバラになった文を何とか文章にしようとして当てはめても、どうにもならない。なら最初から書かなければいいという結論になります。何かに残しておきたかったと思ったからここにある。

 誰にも望まれたわけでもなく、自分が望んだわけでもないこの感情を何と呼ぶのだろう。