静かな世界に響く、一つの音

自分の趣味全開で書いていく、そんなブログです。

【物語】思い出とタイムマシーン

引っ越しの準備

部屋の中には段ボールの箱がいっぱいだった。

「えっと、これはこっちの段ボールに入れて、これは――」

押入れから色んなものを取り出し、種類ごとに分けていく。元々片付けはそんなに好きじゃない。そのせいで押入れの中はごちゃごちゃになっていて、今になって後悔する。しまうときにもっと整理しとけばよかった。次々と段ボールに放り込んでいく中、押入れの中にあるものを見つける。

ここにしまってから一度も開けられていない段ボールに入ったままの箱、側面には大きく<思い出>と書かれていた。わたしはちょっと気になり手を休め、その箱を開けてみることにした。持ってみると中々重く、もっと小分けにして入れておくべきだろうと思った。

 

「うーん……」

さて、記憶をたどってみても中に何を入れたのか思い出せない。実際この中に入れたのは自分だ。箱の側面に書かれた字は紛れもないわたしの字だからだ。まぁいいやと思い、しっかりテーピングされている箱に手を掛ける。ずいぶん経っているのに、いやずいぶん経っているからなのか分からないが、中々剥がせない。テープの端を削るように爪でガリガリとやってみるも剥がれたと思ったら途中で切れてしまった。少しいらいらしながら何度も同じ作業を繰り返す。やっとのことで段ボールの角まで剥がすことに成功した。ここまでくれば後は一思いに引っ張るだけだ。シャっと音と立ててテープは剥がれ、箱が開けられる状況になった。

段ボールの中身

「ふう」一息つくと中を確認することにした。中から一番最初に出てきたのは小学校の頃に描いた絵だった。懐かしいという思いはなかった。こんな絵を描いてたんだ、というとても客観的な目で見ていた。

絵の中には父と母、そしてわたし。指先はとがっていて、とんがりコーンでもつけてるんじゃないかとでも思うような絵だった。その指先はわたしを真ん中とし、両手を開き重なるように手と手が繋がっていた。

絵の主題はなんだったのだろう。自分の両親?自分の大切なもの?それとも仲良しというものだったのだろうか。そんなあいまいな考えをしながら、箱から次のものを取り出す。

形としての思い出

これは、中学生のときの作文だ。読書感想文か、最初の題名に本の名前が書いてある。『銀河鉄道の夜について思ったこと』そう書かれていた。その作文にざっと目を通す。

わたしは恥ずかしさのあまり赤面しそうになる。その頃の自分にとって最大限の努力をしたのだろう。でも今それを見るととても目が当てられたものではない代物だ。『でした、でした』続きでまさしく実際に読んだ部分を書いている。そこに付けたしたように『と思った』と書かれていて、これはひどいなというのが感想だった。絵とかならまだ下手に描かれていても恥ずかしくはならない。自分にとってそこまで興味のないものだからかもしれない。でも文章になるとそれが途端に恥ずかしくなる。小学校、中学校ではわからなかったことが目に見えてわかるようになる。つまり間違っていることを間違っていると理解したすることでその恥ずかしさが生まれた。

絵には間違いはないと思う。そこらへんは個人の自由だし、何が好きかなんて人それぞれで片付いてしまう。文章についてはこの表現は個人の自由というにはあまりにも都合がよすぎる部分がある。実際に書けばいいやと思って書いた文章を後で読み返すと、その思いはちゃんと伝わってくる。

文字数だけを埋めることを考えていたあの頃の自分を殴りたい、なんて衝動に駆られる。当時の先生はこれを読むのに苦労しただろうなというのが目に浮かぶ。だって読んでてもつまらないもの、あらすじがずっと書かれてる感じで。感想文で求められているのはあなたはどう思ったの?という部分のはず。その部分がまるでない。ならその感想文の価値はどこにあるだろう。あらすじだけを書いていくなら誰でもできる。主人公に共感するもしないも誰でもできる。その先のどうしてなのか?という部分がない限り価値はないだろう。

文章で求められるあなたという個性。それがなければきっと先生でなければ読んでもらえない。誰かに読んでもらえることを前提としたものと必ず読まれることを前提としたものではわけが違う。前者では自分の個性がないときっと読んでもらえない。ただのあらすじを感想と評して書かれた文に付き合うほど人は暇ではない。後者はそのただのあらすじをも読んでくれる。それでいてそれなりの評価をしてくれるといういたりつくせりなシステムになっている。

それは過去への――

中学校の頃の作文でずいぶんと熱くなってしまった。まあ、それほど言い訳したくなるような文章を目にしたわけだ。わたしはこれ以上段ボールから思い出を引っ張り出すことをやめた。これより恥ずかしいものが出てきたら、赤面どころか鳥肌だって立ってしまう。さっさと作文と絵をしまうとガムテープで箱にふたをする。

きっと思い出は見るもんじゃないなと感じた。

思い出の品を見てそれで過去に思いはせるというのが正しいのだろう。思い出をただの物として見たとき、それはいかに幼稚でくだらない物かを気づかされる。この段ボールに詰まっているのは今のわたしから見た思い出の品ではなく、昔のわたしへとつながるタイムマシーンなんだ。

そう思って思い出と書かれた側面の文字を二重線で消して、新たに書きなおした。

タイムマシーンと。