自然と環境 普通と特別
自然とは一体何なのか。
話すこと、書くこと、体を動かすこと、それらすべて自然にできるようになっている。
それは意識しない間に学んだことだからだ。
生まれてからずっと話されていればきっと話すようになるだろう。
生まれてからずっと文字の書き方を見ていればきっと書けるようになるだろう。
生まれてからずっと体を動かし続ければきっと身体能力は普通より高くなるだろう。
しかし意識しないで学んできたことはそれ以上進化はしない。
なぜなら自然の中では特別に秀でた人が環境にいないからだ。
同じ環境の中でずっと育つと、能力に高い低いがあっても誤差の範囲でしかない。
その中で高い人物を集めさらに高めようにするのが特別な人を生むのだろう。
だが、環境の問題だけではない。
回りの能力が高ければおのずと高くなるなら差なんてものは生まれない。
同じ環境の中で自分から物事に取り組むということを始める人が現れる。
それはもう自然ということではない、自分の力で立ち上がることになる。
それに高い環境があれば、さらに力を高めることが出来る。
人類の限界を挑むように世界で共通の競技で争う、その頂点を目指して。
人間は進化することが出来る、ということを示すようにワールドレコードの更新、前人未到の快挙などしてたたえる。
それは四年に一度行われ、人はそれをオリンピックと呼ぶ。
そのすさまじい能力を前に私たちは熱狂し興奮する。
自分が何かしたわけでもないのに心が熱くなる。
人の心を動かすほどの力を持つ、高い能力は自然に身についたものではない。
人はそれを努力の結晶という。
その結晶は決して自然の中では生まれない。
自然の環境ではきっと原石のまま眠ってしまうだろう。
それを自覚させて導く人がいれば原石は磨かれ輝きだす。
自然とはある程度のことはしてしまう凄いものだ。
しかしある程度はある程度でしかなく、そこから特別は生まれない。
特別なものにするのは自然ではなく人の力である。
共通の認識で特別なものを才能や天才などと呼ぶ。
しかし、それは間違いであるし、そう呼ぶのは失礼である。
いかにその身を削って努力したか、私たちはそのすべてを目にしたことはあるだろうか。
そのすべてを知らないで才能だの天才だので片づけるのはいかがなものかと思う。
ただ、自然の中にいたのではそう思うのも無理はないかもしれない。
そこには自然と生えてくる雑草など普通のものしか見えていないのだから。